大きくする 標準 小さくする

価値の違う2度のベスト4

35回生(昭和58年卒) 寺崎 直幸

 

 私達35回生が入学すると同時に、三宅先生が星陵に赴任された。当時は先生もまだ若く、かなり厳しかった。2年の秋の修学旅行で、宮原と下宝が酒を飲んで見つかった時に、旅行から帰った翌日、他の生徒がクラスごとの打ち上げで騒いでいる中を、ラグビー部だけ連帯責任で全員学校に集められた時は悲しかった。

 先輩が6月の大会後に引退したので、2年生の夏から私達のチームはスタートした。夏合宿は信州の栂池で灘高と合同だった。合同といえば、村野工業との合同練習もこの頃から頻繁に行うようになった。毎週木曜日の6時間目の授業が終わる頃、すでに村工は第2グランドでランパスをしていた。日没までは試合形式の練習をし、暗くなると三宅先生のまっ赤なブルーバードのヘッドライトに照らされてスクラムを組んだ。2年生の正月明けは、いきなり村工との合同合宿だった。稲美町の村工のグランドで、体育館の裏の堅いベッドで寒くてつらい合宿だった。夜の演芸大会では、先生にうけないと何をされるかわからないという村工の気合に圧倒された。

 緑のジャージも私達の代から始まった。はじめてジャージをもらった時、体育の授業でジャージを着て三宅先生にひどく怒られた奴もいた。「おはようミーティング」というのも始まった。いつまで続いていたのだろう。

 新人戦をむかえて、その年、兵庫県から近畿大会に4校出場ということもあり、私達は前年に続いて近畿大会に行くものと思っていた。決勝で報徳だったが、報徳も現在のようにずば抜けて強いわけでもなく、勝つことだけを考えていた。しかし、準決勝で鳴尾に6-9で負けてしまい、自信を喪失してしまった。

 県民大会が始まった。例年の星陵と同じで、FWは強くなかったが、バックスには力のあるチームだった。2回戦で村工に72-0で勝った時は、優勝候補の声も出たそうだった。この大会は順調に勝ち進み、準決勝で神戸と対戦する事になった。神戸は前年、全国大会に出ていたし、力は相手が上だったが、春の練習試合で僅差ながら勝っていたので、チャンスはあると思っていた。PGで先制しトライのチャンスもあったが、ミスで潰してからはほとんどペースをつかめずに3-32で負けてしまった。自分達は挑戦者だということを忘れて勝たなければと思ってしまい、全く自分達のラグビーが出来ず悔いの残る試合だった。

 さて私達は、この大会を勝ち進むにつれて大きな問題を抱えていた。いつからそうであったかは知らないが、1年上の先輩までは3年生は6月で引退していた。しかし私達は残るか残らないかで大きく揺れていた。結局3年生13人の内、3番寺崎、6番瀬、10番宮原、11番秋元の4人だけが残る事になった。

 3年生は4人残ったのだが、2年生のバックスが少なかったので、秋元をCTBにまわして、11番、12番、14番は1年生という布陣で秋の大会に突入せざるをえなかった。しかも14番の田中佳成は、夏まで3番をやっていた選手だった。当然、バックスで点を取る事は難しく、得点源は宮原のDGとスクラムトライぐらいであった。それでも、2、3、4回戦は何とか20前後の得点で勝ち上がり、準決勝で再び神戸と対戦することになった。6月と違い力の差は歴然としていたが、気合いは充分だった。下級生の何人かは、試合当日、頭を丸めてやって来た。こちらは負けても失うものはないと開き直っていたので、スクラムを5人で組んで第3列をバックスの後にまわしたりしていた。試合開始早々、敵ゴール前へのハイパントに、CTB秋元が見事なタックルで相手FBを倒し、絶好のボールが出た。しかしバックスラインに残っているのは1年生ばかり。SO宮原は仕方なくDGを狙った。宮原はこの大会4試合で7本のDGを決めている。結局この3点だけで、3-41で敗れた。しかし精一杯やったという気持ちがあったし、後輩もよくがんばってくれたと思うので、悔いはなかった。

 以上のように私達35回生は春、秋共にベスト4まで進むことができたが、その内容は大きく違うものだった。秋の大会を充分な戦力で戦えなかったことは残念であったが、私達の代から3年生が残るようになって、その後、何度も秋の大会で良い試合を見せてくれるようになったことは非常に嬉しく思っている。

 

35回生 (S.58卒) 部員

 

 寺 崎  直 幸

 宮 原  良 信

  瀬   晴 彦

 秋 元  裕次郎

 池 野  公 俊

 下 宝  道 夫

 玉 石  龍 介

 太 田  隆 紀

 山 畑  祐 二

 松 本  征 人

 田 中  祥 己

 高 田  泰 啓

 土 田  哲 司