我々がつけた「だるま」の愛称
17回生(昭和40年卒) 原田 輝夫
まず、最初に私がラグビー部に入部するきっかけを、お話したいとおもいます。
1年生の1学期、高校に入学して間もない頃ですが、体育の時間に体力測定があり、その結果をみた当時のラグビー部顧問の西村先生が、私を含め大西、西垣、藤井、黒田、徳丸君の6名に入部を勧められました。私はすぐに入部を決め、ラグビー部員になったのですが、当時、部員数が少なかったのですぐにレギュラーのポジションが与えられました。それでもなお、1年生の試合の時は人数が足りず、他の運動クラブの選手に参加してもらい試合を行う状態でした。
あまり記憶は定かではありませんが、1年生の時はウィングのポジションで練習をつんでいたように思いますが、ある時期にフッカーのポジションに変わりました。後で考えてみると、ウィングまでボールが回ってこないため、体の柔らかい私はフッカーに変わったものと思います。3年生の時はフルバックをやっていたと記憶しております。
私が主将を務めた際のチームカラーは、小型のFWであるため、スクラムの押しは弱いがバックローの機動力に優れており、又バックスも小型であるがまとまりがありました。しかし、全体的にみるとスタミナ不足だったと思います。
私が1年生入学時に、西村先生が日体大を卒業され、星陵高校へ体育教師としてやってこられました。日体大ラグビー部では1軍と2軍をいったりきたりしていたウィングの選手でおられたという話でした。風貌は、太い眉、四角のごつい顔で、体格は小柄であるけれど、がっちりしており、太ももは我々の2倍くらいありました。練習は厳しく、我々ラグビー部員はいつも先生に対して反発心をもっておりましたが、卒業して考えてみると、先生は星陵高校ラグビー部を強くするために情熱をもって我々を指導教育されていたものとおもいます。しかし、1番いやな練習は生タックルでした。先生がタックル台になり、我々がいくらタックルしてもあの太い足(太もも)に跳ね飛ばされ、先生が倒れることはありませんでした。西村先生のだるまというあだ名は、そういうところから我々がつけました。
ある時、昼休みに校庭の芝生の上で全校生徒がくつろいでいる中、生タックルの練習をさせられた時は、我々が先生にいくらタックルをしても倒れず、跳ね飛ばされ、皆の前で恥ずかしいやら悔しいやら、いてもたってもいられないようなことがありました。当時、我々ラグビー部員は、そんなにいい格好をつけなくてもいいじゃないかと思いました。また苦しい練習のさなか、ボールをテニス部のコートにわざと蹴りこんでテニス部の女子部員にボールを返してもらう楽しみがありました。
最後に情熱を持った厳しい西村先生に指導教育を受けたことは、社会人になり随分役に立ち誇りに思っております。今後ますます星陵高校ラグビー部の活躍を願っております。
17回生 (S.40卒) 部員
原 田 輝 夫
藤 井 一 成
西 垣 方 博
徳 丸 進
黒 田 孝 高
大 西 将 司
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