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「苦」と「楽」の思い出

14回生(昭和37年卒) 鈴木 進

 

 高校生時代(1959年~1962年)は今から約40年も昔のことになります。
よって、当時のことはあまり記憶にありませんが、3年生の時のメンバーは1年生からずっと一緒にやって来た北木君と池田君、あとは途中から入って来た古川君、生田君、中北君、菅君の計7人と2年生5~6人、新1年生3人ぐらいで、やっと試合ができる部員数であったかと思います。
 当時、ラグビーは今ほどメジャーなスポーツではなかったし、ラグビー部は柄が悪いとのイメージが強くて、入部して来る者も少なかったような気がします。実際、部員の中には今で言うツッパリが多く校則に違反し謹慎になっている者や他部に退部させられて来た者がいて、事実柄が悪かったような気がします。
 そんな状態ですから当然のことながら、ご指導いただく先生方は居られず、部の存続の危機にあったような気がします。それで我々の年代で部が途切れることだけは避けようと、北木君と池田君とで部員の獲得に頑張った思いは強く残っています。
 試合をしたのも春の新人戦と冬の全国大会予選の公式戦の年2回ぐらいでした。他校と練習試合をした記憶もありません。それでも毎日練習をしていたように思いますが、今思えば練習のための練習であったかもしれません。それは昨今の運動部のあり方ではなく、学生の自主を尊重した放課後活動の一環としてやっていた意味合いが強かったような気がします。
 ラグビーの一番の思い出は1、2年生の時にあります。入学は1959年(昭和34年)ですが、入学後、即ラグビー部に入部しました。入部のいきさつは兄の一言でした。
 兄は星陵のOBですがラグビーのOBではありません。なのに何故か私に"ラグビーをやれ"と命令し、私は言われるままに入部したのを思い出します。それはともかくとして、入部間もない1年生の夏の合宿は今でも忘れられません。ご指導いただいたのは清水先生(保健体育教諭)

と浦先輩(11回生)でした。ラグビーの'ラ'の字も解らない、勿論ルールも知らない者が8月の真夏の日中に砂ボコリのするカチカチのグランドをただただ2年生の尻に付いて走ったのを思い出します。
 しかも、今では考えられないことですが真昼と言うのに坊主頭に帽子もかぶらず、のどが渇いても一滴の水も飲ませてももらえず苦しかったのを思い出します。
 しかし、'苦'ばかりでなく'楽'もありました。夜は先輩が近所の畑で夏の味覚(西瓜)を収穫して来てくれた物を、みんなでわいわい言いながら賞味させていただいたことを思い出します。
 試合についても強烈な思い出があります。1年生の冬の全国大会予選では'村野工業'に100点ゲームで負けましたが。2年生の時はベスト4まで勝ち進み、あわや優勝するのではないかと思ったほどでした。
 卒業後は神戸製鋼所に就職しましたが、15年近く現役でプレーしました。当時の神戸製鋼所は現在の様なエリート軍団でもなく、強くもなかったが、それでもメンバーは大阪や神戸の名門校(淀川工業、村野工業、兵庫高校)出身者で構成されておりました。全国大会に出場しても1回戦止まりでしたが、そんな中でレギュラーで十分やって来れたのは1、2年生時にみっちり基礎を鍛えられたおかげだと今にして思います。
 ご指導ご鞭撻いただいた先生方や先輩の方々に感謝しております。

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14回生 (S.37卒) 部員

 

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 古 川  智 己
 菅    寿 雄
 脇 本  経 一
 北 木  仁 志