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通算25年を振り返って

3代目顧問(昭和37年5月~55年3月、平成5年4月~12年3月) 西村 一信

 

 昭和25年創部。今年で満50年を迎えるにあたり、山口忠男君(26回生)の呼びかけにより、副会長井上修君(22回生)からOB総会に提案、全員の賛同を得て、記念誌発行に至りました。そして、資料集め、編集に野呂雅之君(27回生・朝日新聞社会部)が自ら快く引き受けてくれたことに感謝しています。

 この機会に私も、50年のうち通算生活の大半を過ごした星陵ラグビーを振り返ってみることにしました。

 昭和37年5月1日付にて新卒で赴任し、55年3月までの18年間を「第1期」、平成5年4月から12年3月までの7年間を「第2期」として振り返ってみました。

 

【第1期】----------------

 昭和37年、郷里の熊本県に就職が内定していましたが、4月1日付で辞令が出ず、急遽上京、当時の日本体育大学の栗本義彦学長に相談したところ、「兵庫県に行け」との一言で県の面接を受け則採用となり、ラグビーの指導者を希望されていた当時主任であった福井裕先生にお会いし、星陵にお世話になることになりました。

 現在の伝統あるラグビー部に至るためには、赴任しての3年間を忘れる事が出来ません。着任早々の5月3日、神戸高校の文化祭だったと思いますが、「星陵ラグビー部が招待されているので、指導とチームの状態を把握するのに丁度いい機会なので行ってくれるか」と福井先生に言われ、試合1時間前に神戸高校グランドに到着する。ところが、星陵生は1人も見えず、やっとキックオフ20分前からポツンポツン揃い始める。それも私服、中には下駄履きで、やっと10分前に練習開始となる。ところが、SHがこず、急遽フランカーをSHに指名し、ゲームに臨みました。身体だけはずば抜けて大きいのに、ラグビーからはほど遠く、スタミナも無く情けない大敗でした。この時の審判をしていただいたのが現灘高校の山口安典先生で、試合後、自分のチームを作るためには「焦るな、永い目で見ろ」と日体大の先輩としてアドバイスを受けたことを覚えています。

 この試合を基に練習計画を練りスタートするが、練習は休むし、特に走り込みとタッククルの練習は嫌がり、苦しいスタートだったことを思い出します。

 紙面にするのはどうかと悩みましたが、あえて記しておこうと思います。OB諸氏からの言い伝えで、「ラグビーは生、死を伴うスポーツである。その為には、悔いを残してはならない。タバコ、酒等たしなみ、大人の仲間入りをすることによりプレーも伸びる」とか言われ、それを現役は実行していたようです。星陵ではなにかと問題の多い部であったようです。

 その年の総体県予選までには、少しはラグビーらしくなり、悪くてもベスト8には入れると期待しながら生徒指導部に大会参加申込書を出せば、個人名を赤線で抹消された。その理由を訊ねると、謹慎を食った者は半年間の出場停止とのことで納得したが、正選手15名中9名も該当し、その年は申し込みの段階で棄権。部の改善の必要性を痛感し、私の方針についてこれない者は退部するよう勧告。3年生全員が退部し、2年生の大半も退部する状態となった。

 翌年、河野健一君(18回生、現OB会会長)らが入部し、新たなる星陵ラグビー部の第一歩が始まった。

 昭和41年、県民体育大会準決勝で佐藤広司主将(20回生)率いるチームが、その年の全国大会でベスト8に入った尼崎東と大接戦を演じ敗れはしたが、新生ラグビー部の基盤が出来上がり、走り出した感がありました。しかし、3年はこの県民体育大会で引退となるため、1・2・3年生での花園への挑戦は困難であった。

 昭和44年、三宅一君(24回生、現明石城西教諭)ら有望選手が入部、翌年は、目標を高く総体を狙いにいきましたが、県民大会3位となり、従来通り3年生は引退の予定であった。その後も説得を続けた結果、3年生が出場を決心したのが大会の1ヶ月前でした。抽選に間に合わずシード権を破棄、1回戦当日、大幅なメンバー変更届を出しての大会でした。もともと力のあるチームであり、シードチームを次々と撃破、あっというまの決勝進出。この大会から初めて決勝は神戸市中央球技場を使用、村野工と戦い敗れはしましたが、3年生が最後までラグビーを続ける第一歩でもありました。

 昭和46年の新人大会には初の近畿大会出場を果たしました。和歌山の河川敷グランドでの試合、思い出多き大会でもありました。メンバー不足で柔道部から李君(プロップ)、バレー部から大塚君(ロック)、陸上部から南君を入れて16人で大会に臨み、決勝進出。決勝当日、李、大塚両君が灘高校と灘浜グランドを勘違いしてゲームに間に合わず、県伊丹戦に13人で臨み勝利を得ました。また、近畿大会において、フッカーの川上君が高熱のため、当日、父親の車で毛布にくるまって到着し、開会式には間に合わず、ゲームに間に合うかどうかやきもきしながら待ち続けたことが印象深く思い出されます。

 近畿大会1回戦の天王寺高校(準優勝)との試合でしたが、今思えば、大魚を逃した気がする。主将有賀孝君(SO)を中心としたTB陣は全員50mを6秒台前半で走る俊足ぞろいであり、腰を落ち着けて戦えば勝っていたかも知れない。

 これ以後、ベスト8が最低条件となり、基盤が確立されていった。

 新人戦は50年度の29回生が同点による両校優勝(抽選にて負け)、52年度の31回生の主将武井仁思君(同志社大卒、日本学生選手権決勝対明大戦フッカーで出場)を中心としたチームで2回目の出場を果たす。

 しかし、目標はあくまでも全国大会であり、準決勝までは何回となく進出するがもう一歩の壁が破れず、昭和55年4月、三宅一君に夢を託し、県立明石清水高等学校へ転出する。

 

【第2期】----------------

 まさか星陵に帰るとは思わなかった。平成5年3月、高校入試の採点をしている時、校長から呼ばれ、冗談じゃないからと前置きされて言い渡されたのが、「星陵へ転勤せよ」。半信半疑が偽らざる気持ちだった。時間とともに三宅君の功績を引き継ぎ、最後のチャンスを生かそうと心して赴任する。

 常に報徳を念頭に入れての年間練習計画に乗っ取って練習を行う。新人戦、県民体育大会、市内大会はあくまでも練習の一通過点として臨んだ。

 優勝を狙える布陣は、7年間のうち4回あったが、あまりにも先をみすぎたことと、15人は揃うが、大会が始まると、負傷者が出ることにより、リザーブ層の薄さを補うことができず、準優勝で敗退という私にとっては苦しい7年間であった。

 特筆することは、平成10年4月2日から4日にかけて開催された第1回全国セブンズ大会に、尾方宏之君(京産大)を中心とした51回生が県代表として参加し、いきなりベスト8に入ったことであろう。勝敗にこだわらず、参加することに意義ありのリラックスした参加が、プール戦にて1位となり、カップトーナメントへの進出。1回戦は茗渓学園(準優勝)と対戦し、12対12の熱戦、引き分け抽選になるかと思われたが、インジャリタイムにてトライされ敗れる。この大会に参加して思ったことは、7人であれば全国に通用するチーム編成ができるが、適材適所の15人を育てることの難しさを改めて認識させられた。このチームは4回目の近畿大会出場も成し遂げているが、県総体は負傷者の穴が埋まらず、準々決勝で敗れている。

 現在、主な実業団や大学で活躍してる選手では、46回生の坂下祐介君(大体大→三菱自工)、47回生の大西智崇君、48回生の北井孝明君(姫工大)、榎本尚剛君(岡山大)、木村浩二君(神戸商大)、49回生の渡邊雅哉君(鹿屋体大)、51回生の尾方宏之君(京産大)、山口拓也君(姫路工大)らであるが、そのほかにも各地域の国公私立大学で数多くの卒業生が頑張っている。

 また、親子二代にわたり指導する栄誉に預かり、こんな嬉しいことはない。18回生の隅田雅裕君のご子息昌平君、26回生の山口忠男君のご子息拓也君(51回生)の2組である。

 25年間を振り返ると、卒業回生ごとに思い出が走馬灯のように浮かびあがり、私とともにラグビーに汗を流した300名余りの顔とプレーがよみがえってくる。一人ひとりの思い出を記したい思いである。

 皆がいての私だったと思う。OB諸氏に感謝するとともに、私の果たせなかった全国大会への夢を次期指導者に是非かなえてほしい。

 

 

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